ペットボトル
出張先の会議室のテーブルに、
会議のレジメと緑茶のペットボトルが無造作に置かれている。
無言で「そこに座れ」という指示なのだろう。
以前なら、
主催側のスタッフが湯飲み急須にお茶を煎れて、
時候の挨拶とともに、「おもてなし」のお茶を運ぶのが常だった。
馥郁としたお茶の香や湯気と共に、おもむろに会議が始まった。
無機質な「ペットボトル会議」に、慣れて久しいが、
比例して、人とのギスギスした距離感が生まれてきた気もする。
かつて進路指導部に配属されてたとき、
毎日、企業・大学関係者など 多くの来客を迎えていた。
その都度、ねぎらいの意味もこめて、季節のお茶をお出ししていた。
ある日、
進路指導部長いわく (←こいつがイヤな野郎で!)
「客にはお茶を出さなくていい」とぬかした。
理由は、
1,客はあちこちで飲んできてる。
2,仕事を中断してお茶の準備するのは無駄。
3,そういう取り決めをしたから。
などだったと記憶する。
お茶は「おもてなし」の心であり、
関係を円滑にするためのいわば、「潤滑油」ではないか。
黙って従ったものの、来客を迎えるたびに、
私のこころがざわついて「違和感」に苦しんだ。
今の進路指導部はどういう状況かわからないが、
そういう「とりきめ」があるとすれば、
無味乾燥な市場原理主義そのもので、
日本人の精神性や情緒が、そういうところから削がれていくのだ。
まったくデリカシーがないと思った。
「お茶」は「一期一会」
些細なコスト削減に何の価値があるというのか。
私が部長なら、せっかくお見えになったお客には
やはりねぎらいの心で、
冷茶、熱い茶を出すようスタッフに促すだろう。
それが人として当たり前のことだから。
そうそう、
先輩からおいしいお茶の入れ方を教わったり
どういう手順で、お茶を差し上げるのがベストか、といった
細かいことだが大切なことを教わったのも、会議の始まる前の
接待のひとときだった。