narinattaのスイートプラン

気ままなライフ日記

戦記

『永遠の0』関連
父の先輩の実話。
偵察機の操縦士であったSさんが、3人乗りでラバウルに向かう途中、
敵機に撃たれ、プロペラを破損、空中をさまよう中、
雲のかなたに母の姿があらわれ、手招きをしたそうです。母に従いその方向へ向かうと
敵がいなくなった。見ると後部座席の戦友が撃たれてすでに息絶えていた。。
このままでは燃料が持たないと、心で拝みながら、亡くなった戦友を空中へ・・・。
戦争とは・・・生きるとは・・・。
まもなく海面着陸。 7日間、生き残った2名は敵艦におびえ、鮫におびえ、
南海を漂流しました。
ゴムボートにつかまり、敵船が過ぎ去るのを海中に身を沈めて待っているとき、大きなカニ
尻を食われたそうです。
Sさんはその噛み跡を、父に見せたそうです。
 
ついに命もここまで・・・と思ったときに、救助船(米軍)に拾われ、朦朧としたまま救助されました。
自決を阻止するため、手を縛られぐるぐる巻きで完全滅菌室で消毒され、徐々に食事も喉を通るようになったそうです。
それから、徐々に米軍の平和教育(民主教育)が始まり、旧日本軍の戦陣訓 「辱めを受けず・・」の意識が
変わっていったそうです。
捕虜生活で、特殊潜航艇に乗っていた酒巻少尉に会ったと。
真珠湾で特殊潜航艇の艇長だった酒巻和男氏も、漂流していたところを救助されたようです。
しかし、大本営は 当時、戦死者9人を「九軍神」とたたえ、ただ一人生き残って太平洋戦争での
捕虜第1号となった酒巻少尉の存在を隠そうとしたようです。
情報操作の真偽を見分けることの大切さも この史実からうかがえます。
 
日本人捕虜2000名くらいで、某基地に移動。1年以上そこで生活して、ようやく母国に
戻ったとき、Sさんはもはや「英霊」として自分の墓を建てられていたそうです。
2度目の自害を図ったのはその時。ショックからなかなか立ち直れなかったと語っていたそうです。
ある人にいさめられて、自害を思いとどまり、自分の墓を蹴っ転がしたそうです。
 
特攻帰りの戦後の生活は、大変過酷なものだったようで、戦前は「軍神」としてあがめられ、
戦後は・・・底知れぬ虚無を胸に新たな生活をスタートされたと聞きました。
 
父は当時、いわゆる「純粋軍国少年」で零戦にあこがれていました。
しかし死にに行くのだということもわかっていました。
自分も志願しようと海軍経理学校の書類を取り寄せたとき、父親(私の祖父)に猛反対されました。
私の祖父は当時、海上偵察をする役目をしていて、沖を通過する軍艦の様子で、
早くから日本の負けを察知していたようです。
「みすみす負け戦に行くことは許さん」と言われ、 あきらめたと父は言います。
もし戦争があと1年長引いていたら、間違いなく父も徴兵されていたわけで。
生々しい体験を聞き、映画を観て
戦禍を風化させてはいけない、若者に伝える世代がもういなくなる、私たち戦後世代が何とか
後進に伝えていかなくてはいけないと実感するのです。
 
父から、今後も戦争当時の話を聞き、ブログにアップするつもりです。
Sさんの話 詳細な部分は聞き逃してしまい残念です。 Sさんはもうこの世にはいません。合掌
 
 
 
 
 
今夜はパスコの食パンでサンドウィッチ。
朝食用に父にも。
 
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酒巻少尉の乗船した特殊潜航艇はイ24潜水艦に搭載されて、ハワイ時間12/6深夜オアフ島真珠湾外10マイル(19km)の配備につきました。ところが方位を知るためのジャイロ・コンパスが故障している事がわかりましたが、潜望鏡を使って方向を確かめると、酒巻和夫少尉はイ24潜の艦長に出撃の決心を告げ、稲垣清2等兵曹と共に翌朝12/7未明(御前4時頃)母潜を離れ夜明けを待つこととなりました。海中での固定器具の解除により、いきなり海上へ放り上げられて、バランスを崩してしまいました。バラストの重りを狭い潜内を移動する事3時間余り、ようやく水平になりました。潜望鏡の偵察で真珠湾外はるかに遠くに居る事がわかり、湾口に向けて航行しましたが、折悪しくイ16潜から出撃した横山艇の潜望鏡が米駆潜艇"コンドル"に発見され、その通報で攻撃中の米駆逐艦"ウォ-ド"に発見されてしまいました。その爆雷攻撃はすざましく横山艇も撃沈されましたが、酒巻艇は辛くも逃れる事が出来ました。しかしそのダメージは大きく、廷内にガスが発生した上、廷内気圧が上がり意識が朦朧とするなか何とか湾内への突入を試みましたが度重なる座礁で、ついに母潜との生還時の予定会合地点”ラナイ島”沖合いへと向いました。真珠湾攻撃の次はシンガポールを攻撃する事になっていたためといわれています。ジャイロコンパスが無いなか、潜望鏡で偵察しながらの航海で目標を見誤り、真珠湾とは東の反対側のオアフ島ベローズ海岸沖に着きました。出撃から24時間以上も過ぎて、バッテリーも尽き、海岸に漂着してしまいました。そこで自爆炸薬に点火、2人とも夜の海へフンドシ一本で飛び込みました。酒巻少尉は翌朝、意識不明で海岸に打ち上げられているところを米軍に助けられ、捕虜となりました。稲垣兵曹は遺体で収容されました。
 
酒巻少尉はハワイ時間12/8 04:00出撃、3時間後に特殊潜航艇が水平となり安定し前進するも、米駆逐艦”ウォード”に発見・攻撃され損傷、真珠湾とは反対側のオアフ島北のベローズ海岸に座礁、漂着。12/9朝ベローズ海岸で捕虜となり、フォートシャフト基地へ「日本兵捕虜第1号」として収容されました。翌1942/3初め、米本土サン・フランシスコのテンゼル基地に抑留日本人やドイツ人らと共に移送され、1週間後、ウィスコンシン州マッコイ基地へ移動し一人だけで収容されました。42/5には日本人抑留者と共にテネシー州フォレスト基地へ移動。42/6末にはルイジアナ州リビングストン基地へ。42/6/5のミッドウェイ海戦による日本兵捕虜が11/15に収容されて来ました。ここで初めて捕虜の日本兵と出会いました。43/5/20再びウィスコンシン州マッコイ基地へ日本兵捕虜全員が移動。43/12頃から西南太平洋の海戦が激化して、捕虜の日本兵が増加。2000人を超えるようになりました。45/6ここを出発、45/7/2テキサス州ケネディ基地へ移動、終戦を迎え、8/14日本敗戦を知らされました、実に捕虜となってから1134日目の事でした。45/12/8日本兵捕虜と共に日本へ向けて送還となり、46/1浦賀へ到着できました。1945年1月初旬、浦賀の復員局で米軍の捕虜服を日本海軍の服と着替えて、郷里の徳島へ無事に生還しました。
地へ日本兵捕虜全員が移動。43/12頃から西南太平洋の海戦が激化して、捕虜の日本兵が増加。2000人を超えるようになりました。45/6ここを出発、45/7/2テキサス州ケネディ基地へ移動、終戦を迎え、8/14日本敗戦を知らされました、実に捕虜となってから1134日目の事でした。45/12/8日本兵捕虜と共に日本へ向けて送還となり、46/1浦賀へ到着できました。1945年1月初旬、浦賀の復員局で米軍の捕虜服を日本海軍の服と着替えて、郷里の徳島へ無事に生還しました。
基地へ日本兵捕虜全員が移動。43/12頃から西南太平洋の海戦が激化して、捕虜の日本兵が増加。2000人を超えるようになりました。45/6ここを出発、45/7/2テキサス州ケネディ基地へ移動、終戦を迎え、8/14日本敗戦を知らされました、実に捕虜となってから1134日目の事でした。45/12/8日本兵捕虜と共に日本へ向けて送還となり、46/1浦賀へ到着できました。1945年1月初旬、浦賀の復員局で米軍の捕虜服を日本海軍の服と着替えて、郷里の徳島へ無事に生還しました。